オーナーの山歴書(若き日の足跡)

山のふところに抱かれて
心に咲いた花
アルプスの日記
ミルク色の下山路

 

山のふところに抱かれて

昭和51年山と渓谷 「私の山歴書16」から

ぼくは蓬峠への最後の登りを1年生に敗けてはならぬと懸命に駆け登っていた。
それは中学3年生の初夏のことだった。
動物や植物の好きだったぼくは生物部に入った。
この蓬峠には自然観察のためにやってきたのだった。
都会の中に育ったぼくには、この自然の不思議な動きがたまらなくうれしかった。
夏にも雪がある、美しい滝と水の流れ、雲と触れあったときの感激、深い森・・・
この自然観察行から帰ると無性に山が恋しかった。行きたくてしかたなかった。父や兄はよく山に行っていた。正月だっていなかった。
ぼくは山の良さについては理解できなかった。
二人が山から帰ってきてもおみやげはなかった。
でもぼくは釣りに行って魚をもってきて、晩の食卓をにぎわすことができた。
けれど、理解できなかったぼくが山を好きになってしまった。
何の報酬もない、無償な登山だったが、心の栄養になるのがなんとなく感じられるのだった。中学3年の正月に金峰山へ登った。
初めての冬山でとても厳しい山行だった。
しかし、充実感はあった。
そして中学を卒業、ぼくは社会人となった。
会社の人たちと山に行くようになり、夏の初めに丹沢の沢登りをした。
ぼくの前に岩の世界が広がった。
初めての山行で見たあの一ノ倉沢の半円状の岩峰群が離れなくなったのだ。18才の春、いつも行動を共にしていた会社の友人が社会人の山岳会に入ってしまい、ぼくも追われるように山岳会に入った。
常にパートナーが欲しかったのだ。
しかし、その山岳会は厳しかった。
体力をつけるための訓練山行ばかりだった。
40名もいた新人が新人歓迎山行で半分に減った。
ぼくは何とか耐えられたが、耐えられない人がかわいそうだった。
ばて、足がつり、うずくまる新人に先輩の平手がほおに飛び、山靴で蹴り、さらに荷を増やしたのだった。
ばてていたっていずれ強くなるだろうに、強い者を中心に考えてしまっている先輩のシゴキにぼくは抵抗した。
強くなって先輩をだし抜いてやる、と意気込んだのだ。
だが木の根のゴツゴツする急な尾根を駆け下っている時、滝のような汗が目に入り込み見えなくなって、ぼくは木の根につまずき大転倒して足首を捻挫してしまった。
けれど、ぼくは痛さをこらえて走りぬいた。
しかし、足は悪化し、行きたかった夏山合宿も腫れている足を見て先輩はやめろと言った。
秋になってもよくならなかった。山に行けないで山岳会にいるのは辛い、ぼくは山岳会を去った。完全に良くなるまで、1年半の年月を費やした。
19才の時現在の山岳会に入会した。
前のクラブに比較し、あたたかい人間に囲まれていた。
山へ登るだけの会ではなかったのだ。
パートナーに恵まれ毎週のように岩を求めて、ゲレンデへ、穂高へ、谷川岳へと歩いた。
ぼくの目標は衝立正面壁だった。会へ入って最初の冬山合宿は北岳だった。
兄は山岳同志会にいて甲斐駒へ入った。
偶然にも同じ汽車で離京、甲府で別れた。
ところがこれが兄の最後の姿になってしまった。
赤石沢奥壁中央壁の冬期初登をねらった兄は、雪塊に叩き落とされ2人の仲間と共に死んでしまった。
兄と共に帰京するとすぐ両親から、冬山と岩登りは絶対やめろといわれた。
そんなこといわれてもぼくにはできるはずがなかった。
兄の分まで登ってあげる・・・とダビの行われた赤石沢大滝の下で吹雪く奥壁を仰ぎながら誓ったんだ。
ぼくは自分なりに心を引き締めて山に向かった。
雪崩については人一倍注意をはらった。その年の冬の最後の登攀を滝沢リッジで飾った。
ぼくに勇気と自信を取り戻してくれた山行だった。
やがて入会して1年が去った。5月、ぼくは衝立正面壁の空間に酔っていた。
当時、早いパーティで1日かかって抜けていたが、ぼくらはその日のうちにコップ正面壁も登って降りてきた。
桜の花の満開の麓で先輩たちが差し出してくれた冷酒がとてもうまかった。
育ててくれた先輩達はぼくの肩を叩き、「良かったなっ」とまるでぼくがひとりで登ってきたみたいに言ってくれるのだった。
大きな器につがれた酒の中にぼくの涙がこぼれ落ちた。
そう、5ヶ月前、ダビの煙の昇るのをじっと涙をこらえて見つめていたぼくの後ろから先輩は「皆の前で涙なんか流すんじゃないぞ、泣くなら誰もいない所へ行って泣くんだ!」と言った。
途端ぼくの目からは水門を開けられたように涙が溢れてしまった。
その日もそんな気持ちだった。
ぼくの会には大人になっても胸の中に飛び込んでいって泣けるような先輩がいるんだ。
目標が終わった。
その陰に先輩たちの力強い励ましがあったことを忘れはしない。次の目標はヨーロッパアルプスの大岸壁に変わった。
夏から秋へ、冬から春へと登攀を重ねて行く中で、ぼくは再び大きな打撃を受けたのだった。
大きな山行の多くを共にした小河栄君が一ノ倉沢で遭難死してしまったのだ。
アルプス行も約束したのに彼はぼくを残して先に逝ってしまった。
そしてさらに、彼の死から2週間してお袋が病死してしまった。
ぼくの生活が変わった。
家事が入り込み、ぼくの労働には果てがないような日々が続いた。
疲れ果ててしまったぼくは、こんな苦しみから遠ざかりたくて、死を覚悟の単独登攀を試みようと決意した。
だがぼくには実行できるだけの勇気がなかった。
そんな暗く沈んでいるぼくを励まし力づけてくれたのは誰だったのだろう。
それは山の仲間と、そして山と、そして死んだ小河君や兄やお袋だった。苦しく、辛い日々が続いた。だがぼくは、いつも大きな夢を追い続けた。
ぼくの血潮は力強く生きていた。
どんな障害があっても乗り越えようとする意欲を持ち続けた。
山の仲間はぼくに生きる事を素晴らしさを教えてくれたのだった。
ヨーロッパーアルプスへ行く事も実現できた。
ブレチエール西壁の冬期第2登、グランドジョラスやマッターホルンの北壁も登ることができた。
しかし、ちょっとした不注意で凍傷にかかり、ぼくの足指は切断された。
もう冬の登攀はできない・・・ぼくは病室で悲しみの声をあげた。
「何を言っているんだ、指の1本や2本、義足を付けてヒマラヤに行っている人だっているんだぞ!」
見舞いにきた山岳同志会の小西政継さんは言った。
兄が死んだあと小西さんは兄の替わりとなって、いつもぼくを力づけてくれるのだった。退院するとトレーニングが始まった。
柔らかい皮膚はすぐ破れて血が出た。自分との闘いであった。
そして1年、小河君が死んだ冬の烏帽子奥壁を登れるようになった。ヨーロッパから帰ってきてから登山用具メーカーに勤務し、登山用具の開発など、今までの経験をいかし取り組んだ。
28才の時山仲間と結婚した。
ぼくの山岳会の女性のあり方の中で、いくら育てても結婚すると会を去って行くから女性会員の指導には力を入れないという事を、文部省の登山研修会や岳連などの集まりの中でよく聞いた。
ぼくは反対の意見だ。世の中、男と女しかいない。
女性はいずれ家庭に入るだろう。
男性は結婚しても行けるが女性は行けなくなる方が多い。
だから結婚する前に出来るだけ楽しんでもらいたいわけだ。
青春のひとつの思いでになったら・・・子供が育った時に自分を振り返って、ああ、あんな事があったんだなぁと懐かしく思う。
ぼくはそういうゆとりをいつも持っていたい。
そして、ぼくの相手は結婚してからも山にスキーにと自由に天地をはばたいていた。
もうじき32才になろうとしている。
世界アルピニズム連合の会長は56才でグランドジョラス北壁を登っている。
60才でノワール・ド・プトレイ西壁の6級ルートを登っている。
ぼくもまだ30年は大きな山行ができるように心がけたい。
山は一生かけて登りたい。
小さい時病弱だったぼくも山を始めてから丈夫になったし、動物や植物など、多くの自然に語りかけられるようにもなった。
語りかけられる時ぼくの登山は息をしている。
今一番の大きな夢は針葉樹林のある高原に山荘を建てて、自然を愛する人たちと一緒に自然を語りあいたいということだ。
(日本アルパインガイド協会会員、東京北稜山岳会代表)

 

山に登るきっかけとなった蓬峠自然察、引率の先生のお一人、池場先生と奥様。平成13年夏、野口ペンションて