オーナーの山歴書(若き日の足跡)
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アルプスの日記 |
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アルプスの日記
野口久義著 坊平ペンション便りより抜粋
悲しい思いでいっぱいだった21才から少しは大人になった22才の後半、ぼくは冬のアルプスの岸壁登攀を目標に渡欧した。 10才の時、いつになってもいい、いつか行くんだと小さな胸の中に育み続けたアルプスへの憧れ、それが、さまざまな障害を乗り越えて実現できたのだ。 勤務先の会社も理解があって、7ヶ月もの休職を許してくれた。1968年2月、雪の積もる横浜の岸壁をソ連の貨客船バイカル号は静かに離れていった。 当時、ヨーロッパへ最も安い旅費で行けるのが、船、飛行機、汽車を乗り継ぐこのソ連経由のものだった。 食堂車もない列車に2日半も乗っているのは閉口したが、1週間後にはめざす山の麓、シャモニにやってきていた。 ぼくもパートナーの南川和勇さんも、英語もフランス語も、ドイツ語も、まるでわからない。 日本語と辞書とジェスチャーによって、どうやら安い宿が見つかった。 シャモニ針峰群や、モンブランの良く見える、ブレバン行きのケーブル駅に近いペンションだった。 寝ながらに素晴らしい景観を望む事ができて、二人ともただ感激、ため息ばかりもらしていた。ここから見えないが、めざすアルプスの三大北壁のひとつ、グランド・ジョラスはあの針峰群の後ろに聳えているんだ、と思うと、落ち着かなかった。トレーニングや装備などを揃えるのに何日か費やし、いざアタックとなる頃、今まで安定していた天候が崩れ始めてきた。 それでも、少ない好天をつかんでアタックを繰り返したものの、風雪にたたかれ、雪や氷にすっか閉ざされた岸壁に追い返され、隠れたクレバスに落ち込み、アルプスの冬の寒気には容赦なく体温を奪われた。 もう、投げ捨てて暖かな町でのんびりしていたかった。 でも、町に下りてしばらくすると、再び山へ向かおうとする気力がわいてくるのだった。そんな時、同じ船で日本を離れ、ぼくたちとはインスブルックで別れてからヨーロッパのスキー場めぐりをしていた斉藤次郎さんと再開し、共にバレ・ブランシュをスキーで滑降する事になった。 ぼくたちの目的はスキーでなく、途中にデポしてある荷物を回収することだった。 高度差2800m、16キロの氷河は、ボーゲンと直滑降しかできないぼくには大変厳しいものだった。その日からヨーロッパは大きな高気圧に覆われ始めた。 この冬、最後のチャンスだ。 目標を針峰群のブレチエール西壁に変更し、翌日の午後、ぼくたちは800mの西壁と向かい合っていた。最後の夜を取付き点で過ごした後、ぼくたち2人はザイルを結び合って登り始めた。 間もなく、アルプスの岩場には2ヶ所しかない〝極端に難しい〟といわれる部分に遮られた。 でも、落ち着いて、少しづつその難所を足の下にしていった。 こうして、一日わずか200mしか登れずに4日間が過ぎ、5日目の午後、ようやく山頂にたどり着くことができた。 そして氷河へと下り、5泊目の夜を過ごしたあとシャモニへと下っていくと、上空で爆音が轟いた。 振り返ると、ぼくたちの登っていたブレチエール針峰にヘリコプターが旋廻しているではないか。 ぼくたちのためなのか? いや、ペンションのオーナーには今日が最終日だといってあり、それを過ぎても戻ってこなかったら救助隊に連絡してほしい、と伝えてあったのだから・・・。 しかし、ヘリコプターは氷河にいるぼくたちを見つけるとぐんぐん高度下げ着陸する。 乗員の中からガイドらしい人が走り寄り、「ブレチエールに登ったのか?」というような事を言った。 「そうだ」と答えると、彼は花崗岩のザラザラした岩肌と4日間も接してきたぼくたちの痛んだ手をギュッとにぎりしめ、無言のまま笑っていた。 これからシャモニへ下ると伝えると、ヘリコプターはシャモニの谷へ吸い込まれるように消えていった。ペンションのオーナーの話では、自分の宿のお客にもしものことがあったらいけない、明日から天気が崩れるのでその前に確認しておきたかった、ということだった。 それに、ガストンレビュファの著作の翻訳で知られる早稲田大学の近藤先生や冬のアルプスをめざして同じ船で出発した芳野満彦さん、手島正俊君、福田三男君もドロミテから戻ってきていて、みんなで相談した結果、ヘリコプターを飛ばしたというものだった。 ぼくたちは感謝の気持ちでいっぱいだった。その夜、ガストン・レビュファの山荘で、近藤先生の奥さんの手料理で、楽しいパーティが開かれた。 6日間、流動食だけだったぼくたちの前に美味しい料理の数々が並んだ。 そこへフランス国立登山学校の教官アンドレ・コンタミヌから、ぼくたちの西壁が冬期第2登だ、という電話が入った。 ぼくは食べ過ぎた胃を押さえながら山荘のテラスに出てみた。 赤く染まったシャモニ針峰群やモンブランが、今までのどの時よりも美しく望まれた。 奥からは皆の楽しげな笑い声が聞こえてくる。 幸福なひとときであった。
ぼくたち2人と、福田君と手島君の4人は、冬の山行が終わったら夏のシーズンまで一緒にアルバイトをしようと、バイカル号の中で決めていた。 ・・・・それから67日間、ぼくたちはここで働き、遊び、山へも登り、苦楽を共にした。・・・・ ———- 中略 ———
やがて夏の登山シーズンに入った。 天候には恵まれずに、でも好天をつかんでアタックした。 夜が明けて、荒れ狂った嵐が強い風だけを残して去っていった。 翌日ツェルマットへ一日がかりで下っていく途中、ヘルンリ小屋の前には仲間の井口孝さんが来ていて、もうすでに街ではぼくたちが北壁を登ったというニュースが流れていると知らせてくれた。 田部井さんとぼくは入院してから、血液促進剤の注射の連続で、それがまた痛い注射だった。 入院している間、その時アルプスに来ていた日本のアルピニストが次から次へと見舞いに来てくれた。 雄々しくそびえるマッターホルン。その北壁でぼくはかつてない厳しさを味わった。 |
マッターホルン北壁 |
凍傷で腫れた足 |